昭和のアレっ子事情。

DESSA読者の皆様初めまして、マドカです。
沖縄で生まれ育ち、大阪を経てNYへ辿り着きました。気がつくと在NY歴24年!私の視点からのアレルギーの事について発信していきたいです。

©madoka

初回である今回は、私の「アレルギーの歴史。」から始めてみようと思います。

昭和に生まれた私は、生後2ヶ月で母乳にアレルギー反応が出たと聞いています。私は乳、卵アレルギーを持っていることが分かり、家族にもその疾患を持った人間がいなかったので、今思うと母親はとても大変だっただろうなと思います。その頃の印象的な写真が一枚あって、白い布団の上で臙脂(えんじ)パンツの天然パーマでクルクルの私が、少しぼやけた顔をして仰向けで哺乳瓶を口にしているその写真の裏には、母親の字で「豆乳を飲む」と記されています。その写真を見ながら母が「あの頃は豆乳もまずかったのよねー、豆腐屋さんにもらいに行ったりしながらあげてたけど、あなたは嫌がってなかなか飲んでくれなかったな。」と呟いていました。もしかすると、その時代にもアレルギー対応のミルクがあったのかもしれませんが、私の住む地域では医者が乾布摩擦を薦めるくらいで、知識も情報もあの頃は容易く手に入れることのできなかった時代でした。

私のアレルギーの症状は、「食べ物が唇から食道を通って胃に入るまでの道筋が、赤いブツブツの蕁麻疹となって現れ身体中に広がっていく、そこから気管が狭くなり呼吸が難しくなり喘息発作も併発する」というもの。それはとても苦しく、発作の間は呼吸の苦しさからか天井がぐるぐる回り、現実逃避がしたくて目を閉じて寝ようとしても息が苦しくて寝れずに必死で周りの空気を吸い込もうとするのです。あの頃の苦しさは今でも鮮明に覚えていて、今振り返ると良くぞ生き延びたなと冗談抜きで思います。

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アイスクリーム、ケーキが食べられないというのは、子供にとってはかなり過酷な環境下でしたが、食べてしまったその後の恐怖は幼い頃から心にしっかり刻まれていて、子供なりにそもそも食べられないものに執着しない食べなければ良いと、食べられないものに対してスッパリと線を引いていた記憶はあります。子供の頃の自身の気持ちを代弁すると、「美味しそうなお菓子を見るたびに食べられるかもしれないという期待を持ち、その後やっぱ食べれなかったと落胆するくらいなら食べない、期待をしない方が気が楽だ、そして食べて苦しい思いをするのはもっと嫌だ!」と思ったのです。私の執着しない、物事に対してある意味極端に線をひく性格は、こういう経験からきているのだなと今さらながら認識しました。それでもどうしても食べたくなる美しいケーキが目の前にあり、我慢ができずについ一口に入れたことは何度もあります。口に入れたその後の苦しさは前述の通り、今だとここでエピペンを使用するのが通常コースですが、当時はまだエピペンが一般処方されていない時代、苦しみが過ぎるのをただ耐えるのみでした。昭和、なんてタフな時代だったのでしょう!

ちなみに日本でエピペンが一般的に普及し始めたのは、2005年-2010年にかけてのようです。エピペンの登場はアレルギーを持っている人間にとって、身体的にはもちろん精神面においても神社のお守りに匹敵する心強いアイテムですよね。

私の母は、3兄弟の中で唯一アレルギーを持つ私のために多忙の中、色々と努力、工夫をしてくれていました。例えば学校給食、毎月配られる給食の献立から私が食べられないメニューをチェックしそこからそれに似たものを作って持たせる、炒飯なら卵なし炒飯という風に何かしらの代わりのものを持たせてくれていました。それでも今のようにアレルギー成分の表記がないのでどうしても誤食は起きてしまいましたが、その度にひたすら苦しさがすぎるのを待つ、キューっと狭くなった器官の隙間からどうにか呼吸ができるように自分を落ち着かせて息を吸う事に集中し、時間の経過と共に症状が治るのを待っていました。余談ですが、給食の時間の私は人気者でした!私の食べられないメニューは基本的に子供達の大好きなものばかりだったので、給食が始まるとまずは男子がミルクを俺にくれ!と殺到し、クリスマスには私のケーキが欲しいクラスメイト達が何日も前から熾烈な駆け引きを繰り広げていました。そうやって私の小学生時代は、何度も苦しい思いをしながらも年齢と共に症状が軽減していくような感覚をうっすら感じながら過ぎていきました。

はっきりと症状の変化が出始めたのが中学に入ってから。その頃にはミルク、卵を直接摂取しなければ重い症状が出ることがなくなり、湿疹がサッと出ては消える、少し息が苦しくなるけどすぐ治る。お菓子もある程度は食べることができるようになった、とはいっても、体のコンディションの影響は大きく、季節の変わり目や湿度の高い日(これはあくまでも私の感覚です)は要注意で、菓子パンなんて食べようものならボンッと喘息発作が起き手足が痒くてたまらないという事態になります。それでも死ぬかもしれないという苦しさがなくなり、14歳くらいを境に症状はほとんど出なくなりました。

©madoka

その後、自分がアレルギー持ちだということもうっすらとしか覚えてないくらい、青春を謳歌し食べたい物を存分に食べ、アレルギーとはサヨナラした私でしたが、結婚し出産後一ヶ月、長男の顔にプツプツと湿疹ができたところからアレルギーと共に生きる日々がカムバックするのです。まどかマドカ

この記事を書いた人

【著者:マドカ】

かつてのアレっ子はアレっ子母になりました。
乳製品大国のアメリカニューヨークで、我がアレっ子達が美味しく安全に食べられるものを探し求める日々。
アレルギーを一つの個性と捉え、アレっ子達の「美味しい!」のために日々精進。

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